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本さえあれば、日日平安
長迫正敏がおすすめする本です。
本さえあれば、穏やかな日日。ほっこりコラム連載中です。本好きのほんわかブログ・「本さえあれば、日日平安」
本好きの、本好きによる、本好きのための“ほんわか”。一日を穏やかに過ごす長迫氏のおすすめ本はこれ!
2021/10/12 更新
本さえあれば、日日平安
長迫正敏がおすすめする本です。
コミック
父の暦
著者:谷口ジロー
出版社:小学館
「今日はありがとの~」、最近の父の口癖だ。病院の送り迎え、買い物、話し相手をしただけで私にお礼を言う。
息子に頭を下げる90歳。気に入らないとすぐ怒鳴っていた父も、ずいぶん穏やかになった。
母は台所で泣くことはなかったはずだ。いまの父なら…
ある出来事を思い出した。私の最初の記憶と言ってもいい。
幼稚園に行く準備をしていた時、父と母の言い争いが始まった。従順で辛抱強い母が言い返すなんて、よほど腹に据えかねる一言があったのだろう。溜まっていたものが一気に噴き出たのかも知れない。
「一緒に来んさい!」、母は私の手を引っ張った。いつもの優しい母ではなかった。怖かった。だから「やだ」と答えた。
母は一人で家を出て行った。
父より3歳下の母は、そのとき30代前半だったはずだ。いま思えば、まだ何とでもなる年齢だ。もしも私が素直について行っていたら、どうなっていただろうか?
大人しいけど頑固なところもある母だ。惣領息子である兄は父と、私はそのまま母と、そして妹は生まれてはこない、という未来があったかも知れない。
そうはならなかった。一晩過ぎ、翌日には母は帰ってきた。でも、本当にそれで良かったのか…
「女、子どもがワシに意見すな!」、父は相変わらずだった。
誤解があったらいけないので言っておきたい。父は、暴力を振るうわけではない。
もちろん殴られたことはある。でもそれは、2階の子ども部屋で兄と騒々しく遊んでいた時、ドンドンドンと階段を駆け上がって来た父から「うるさい!静にせえ!」と、二人してゲンコでゴツンとされたぐらいだ。
それでも、私は父とは違う穏やかな人になりたかった。覇気がないと言われようが関係ない。むしろ望むところだった。
私にとって父は反面教師だったのだ。あの日の父を見るまでは。
「父の暦」 谷口ジロー 小学館
父親の葬儀のため十数年ぶりに帰郷した山下陽一は、幼い頃を思い出していた。
突然、母親が居なくなった食卓。寂しさのあまり、伯父の家に駆け出した小学二年のあの日。そこで聞かされたのは、両親の離婚という子どもにとって最も辛い現実だった。
その後、陽一は、ただ頑なに父を拒んでいた。父との間にわだかまりを持ったまま成長し、東京の大学への進学をきっかけに家を出て行く。就職、結婚、忙しいと理由をつけては帰省を避けてきた。そして分かり合えないまま、父との永遠の別れを迎える。
通夜の席で語られたのは、自分の知らない父親、そして母親の姿だった。昭和27年4月、戦後最大といわれる鳥取の大火が、父母の絆を焦がしていた。それは初めて知る家族の歴史。自分はあまりにも幼かったのだ。
「親のことを考えん子がおっても、子のことを考えん親はおらん」、伯父の言葉が陽一の胸に突き刺さる。
陽一は当時の父親と同じ年代となり、口には出さなかった父の苦悩、優しさ、家族に対する想いが痛いほど分かってくる。
淡々と、そして丹念に描かれる回想シーン。どのエピソードも懐かしくて切ない。
その年齢にならないと分からないことがある。親にならないと、夫婦にならないと分からないことがある。
親子も夫婦も未熟な人間同士だ。よほどでない限り、どちらかだけが一方的に悪い、ということはあり得ないのだ。
私も結婚して、あの時の母と同じくらいの年になっていた頃だ。娘が生まれ、息子は、まだ妻のお腹にいた。
3度目の入院中だった母が、病院のベッドで息を引きとった。
「お母さん、家に帰ろう」、私たち3人の子どもが語りかけた。背を向けた父は、壁に向かって一人肩を震わせた。そんな父を見たのは初めてだった。
私にとって父は反面教師だった。あの日、号泣する父のうしろ姿を見るまでは。