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本さえあれば、日日平安

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長迫正敏がおすすめする本です。


本さえあれば、穏やかな日日。ほっこりコラム連載中です。本好きのほんわかブログ・「本さえあれば、日日平安」
本好きの、本好きによる、本好きのための“ほんわか”。一日を穏やかに過ごす長迫氏のおすすめ本はこれ!

2022/03/15 更新

本さえあれば、日日平安


長迫正敏がおすすめする本です。


文庫

タンノイのエジンバラ

著者:長嶋有

出版社:文藝春秋

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タンノイのエジンバラ

駅の北口を出たとたん足が滑った。雨が降っていたのだ。
こう見えて私、実は黒帯だ。M大の合気道部、もう40年前だ。だから身体が覚えていて、とっさに華麗な体さばきで・・・
ということもなく不格好に尻もちをついては、「何よ、も~」とついオネエ言葉が出てしまった。
そう、こう見えて私、実は・・・

脚がちょっと痛む。でも大したことはない。多少濡れたが、それも我慢できる。
周りに誰も居なかったのが幸いだ。ゆっくりと立ち上がり、傘をさしていつもの場所に向かい歩き出す。
少し遠くに停めてあった車がライトを点けこちらに来るのが見えた。見慣れたスバルの軽自動車だった。

電車通勤なので最近あまり車に乗れていない。だから、たまには走らせないとバッテリーが上がってしまう、と思っていたところだ。
動かしついでに息子が迎えに来てくれたようだ。ありがたい。
車はいつもの待ち合わせ場所を通り過ぎてこちらに進んで来ては、目の前の駐車スペースにサッと横づけられた。

「おっやるじゃん、気がきく~」
そうだ、先ほどの件をネタに笑いをとろう。どう言い出そうか?ここはちょっとオーバーに、と考えながら傘をたたみドアを開けた。
「も~参ったよ。さっきな・・」、話しかけると同時に運転席の男性がこちらを見て静かに言った。
「違いますよ。」

そう、全く知らない人の車だった。確かに車種は同じ、色もシルバーで一緒。だから一瞬見ただけで、思い込んでしまったのだ。
その人は、たまたま空いているスペースを発見し、急いで車を移動しただけだったのだ。
恥ずかしい…踏んだり蹴ったり、滑ったり間違ったり、なんて日だ!

『タンノイのエジンバラ』 長嶋 有 文春文庫
夜の気配と低い体温、静かな笑いを感じさせる、芥川賞受賞後初の作品集。

小説は、特に短編は書き出し、だと思う。

隣家の女の子を預かることになった。 「タンノイのエジンバラ」
姉と二人で忍び込む。 「夜のあぐら」
大晦日にグエル公園にいる。 「バルセロナの印象」
秋子はグランドピアノの下で寝ている。 「三十歳」

特にセンセーショナルな感じはしない。むしろ淡々としている。でも何故か、この書き出しに惹きつけられる。
徐々に分かってくる。どんな人が、どんな場所で何をしているのか。その境遇や周りの人との関係が明らかになってくる。
会話に耳を澄ます。自分だったら言わないようなセリフが出て来る。えっ、そう返すのか・・

思わぬ展開が始まる。といっても大事には至らないことは雰囲気で分かる。ちょっと個性的な人たちが、普通に生活しているだけだ。
それでも、どこに向かうのか、どんな結末になるのか気になり最後のページをめくる。
まるでそんな音が聞こえるかのように、ストンと終る。

この人たちは、また明日も普通に暮らし、思い通りにはいかないこと、ゆる~く笑えることが起きるのだろう。
続きを想像しながら、私も明日が来るのを待つことにしたい。
そう思わせてくれる短編集だった。

その後、待っていると息子が迎えに来てくれた。いつもの場所に、いつもの“妻の車”で。
今度は何度もナンバーを見て、目を凝らし運転手を確かめてから乗り込んだ。
ちなみに、この“すべらない話”は息子にも言ってません。

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