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本さえあれば、日日平安

本さえあれば、日日平安

長迫正敏がおすすめする本です。


本さえあれば、穏やかな日日。ほっこりコラム連載中です。本好きのほんわかブログ・「本さえあれば、日日平安」
本好きの、本好きによる、本好きのための“ほんわか”。一日を穏やかに過ごす長迫氏のおすすめ本はこれ!

2023/01/10 更新

本さえあれば、日日平安


長迫正敏がおすすめする本です。


文庫

あしたから出版社

著者:島田潤一郎

出版社:筑摩書房

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あしたから出版社

年の瀬も押し迫った2022年12月30日、いつも通り始発の電車で東広島・西条駅に向かっていた。
後から乗り込んで来たおじさん(そういう私も相当なおじさん)から、「これは岩国行きですか?」と尋ねられた。JR山陽本線の糸崎駅や三原駅は乗り換えがある。これまでも年配の方や外国の方から、何度か同様の質問を受けたことがある。どうやら私は話しかけ易そうに見えるらしい。
「そうですよ」と答えて、また読書に戻ろうとした。しかし、そのおじさんは、「これから宮島のボートレースに行くんですよ、おたくもですか?」と嬉しそうに、そして少々テンション高めに話を振って来た。

振られたからには応えなければいけない。社会人としてのマナーだ。「いえ、仕事です」と返事をした。
「えっ!嘘でしょう。今日は30日ですよ。おかしくないですか、まだ仕事するなんて。そりゃ変だ!」と珍しい生き物でも発見したかのように驚き、ハイテンションな口調でツッコミを入れてきた。
「私は書店員で、店は年中無休なので」と詳しく説明すればよかったのかも知れない。だが人見知りで小心者なので、「別におかしくないですよ…」と小声でつぶやいては読書を続けた。でも、その後は文字を目で追っているだけで、内容は入ってこなかった。

年末の早朝とはいえ他にも何人か乗車客がいた。皆に声をかけて廻るおじさん。だが誰からも相手をされないので新聞を読み始め、しばらくするとその新聞を私に向けて差し出しながら「読みます?」と訊いてきた。
“も~勘弁してよ”と内心思いながら、手にしていた本を見せ、「これ読んでるんで大丈夫ですよ」と答えた。

白市駅に着いた。向かいのホームに次の岩国行きが待機して停まっていた。おじさんはそれを目ざとく見つけ、「あっ、岩国行きだ!乗り換えですか?!」と焦った様子で訊いてきた。
「あれはこの次の電車なので、このまま乗っていれば大丈夫ですよ」と教えてあげた。でも、そう言った後から黒い気持ちがムクムクと積乱雲のように湧き上がって来た。こういえば良かったのだ。「そうです。乗り換えですよ、急いで!」

さよなら、おじさん。ボートレース楽しんでね…、上手く誘導できれば、今ごろ電車の窓から手を振ってそう言っていたはずだ。別に気に病むことはない。嘘はついていないのだ。この電車より後発というだけだ。
現実には、おじさんはまだ目の前にいる。“本当のこと教えるんじゃなかった・・・”、機転が利かないとはこのことだ。

西高屋駅で若い女性が乗車した。おじさんは例によって話しかけた。私と同じように「仕事です」と答える女性。
可哀想に、彼女もまた「今日仕事するなんて変だ!」とおじさんから言われて嫌な思いをするのだろう。

「お仕事ですか、年末なのに大変ですね」
おじさんは優しい声で、ねぎらいの言葉をかけた。そしてあろうことか、その後も女性と会話を続けることに成功した。
私なんかより、ずっと機転が利くおじさんだった。

何だかな~という思いとともに、これが世の中の現実なのだと思い知らされた。あのCM風に言えばこうなる。
この惑星の住人は2種類に分けられる。要領がよく、臨機応変に機転が利く者と、そうではない者だ。

「あしたから出版社」 島田潤一郎 ちくま文庫

『子どものころから、なにか困ったとき、つらいときは、本屋さんへ行った。本屋さんの店内に入ると、気持ちが落ち着いた。たくさんのお客さんにまじって、本や雑誌にふれていることで、かろうじて社会と繋がっているような気もした』(本文より)

この気持ち、よくわかる。本屋はそんな場所だ。居てもいい場所だ。知らない誰かから話しかけられることはない。話しかけなくてもいい。もちろん誰かと競争しなくてもいい。あるタイプの人たちにとって、とても素敵な場所だ。それは、この惑星の2種類の住人のうち、後者の人たちだ。そう、私も含め。

27歳まで作家志望でアルバイトばかりしていた島田潤一郎さんは、履歴書の自己紹介欄に、「仕事はしませんでしたが、その代わり、本は読みました。『失われた時を求めて』を読破しました。」などと書いていた。
「おお、プルーストを読む若者なんて最近めずらしいね。うちで働かないかね」という返事を期待したが、そんなことをいう人は、この社会にひとりもいなかった。

転職サイトを見て、気になる会社のHPをチェックする日々を送っていた島田さんは、同じように仕事を探している人のブログを読んだ。コメント欄で「がんばろう」などと励ましあっている様子を見て、一念発起してブログを始めた。
仕事が見つからない苦しみや、読んだ本の感想、こころに残っている思い出などを、時間をかけて丁寧に綴った。誰かからの「あなたのブログを読んでいます。がんばってください」というコメントが一言でもあれば、救われると思いながら。
だが、何日たってもブログには島田さん本人、ただひとりだけだった。

やがて転機が訪れる。仲が良かった従兄を喪った島田さんは、自分のためではなく、息子を亡くした叔父さん叔母さんのために何かできないかを考えることにした。そして一篇の詩を本にしてプレゼントすることを思いついた。そのことが島田さんを前進させた。編集・装丁・営業すべてを一人で行う「ひとり出版社」夏葉社を立ち上げたのだ。一人では何も出来ない。でも一人なら何でもできる。自分のためではなく、誰かのためになら。

最初の本は大好きな作品『レンブラントの帽子』の復刊。翻訳者のご遺族に許可をもらう。もちろんエージェンシー経由で海外の著者の関係者にも。旧版元である集英社の担当者からも了解を得る。
そして装丁は、和田誠さんに依頼することに決めた。あの和田誠さんだ。手紙を書き、ゲラも一緒に送る。返事が来ない。事務所に電話をする。和田さん本人が電話に出る。「手紙は拝見しましたよ。でも、あの原稿じゃ読めないよ」、島田さんがパソコンでワードを使って作った原稿だったのだ。知り合いのデザイナーに頼み作成した、ちゃんとしたゲラを再度送る。
和田さんは「早かったね」と笑い、「そこまでいうなら、やりますよ」と答える。

予約をとるために書店回りをする。結果は芳しくない。「海外文学はあまり売れないんですよね」と言われ後ずさりしながら店を出る。
でもなかには、島田さんが訪問した後、地元の新聞に、こう書いてくれた書店員がいた。
「夏葉社は若い人がひとりではじめたばかりの出版社で、これが刊行1点目だそう。いま海外文学の復刊で本をつくるのはとてもたいへんだろう。それでも営業に来たとき、『好きな本を出版していきたい。結婚とかはできないかもしれないけど‥‥』と言っていた。これほど本屋の心を打つ営業文句を聞いたことがありますか」

この惑星の書店員は2種類に分けられる。売れている本が好きな書店員と、好きな本を売ろうとする書店員だ。

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