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本さえあれば、日日平安

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長迫正敏がおすすめする本です。


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2010/12/05 更新

本さえあれば、日日平安


長迫正敏がおすすめする本です。


文庫

安政五年の大脱走

著者:五十嵐貴久

出版社:幻冬舎(文庫)

定価:720円

安政五年の大脱走

『それでもせねばならぬ。人の世には、そうゆうことがままあるものよ』

腹をくくり、一丸となり、男たちは闘う。だが、敵に向かって攻めも守りもしていない。彼らの闘いとは、逃げること。人として譲れない誇りのため、命がけの脱出に挑む。

もちろん驚愕の結末は、ここでは言えない。ただ、本書を手に取ってしまった貴方には、「もう逃げられない」、と言っておきたい。泥まみれの脱出劇に、ぐんぐん引き込まれていく。途中止めも、引き返すことも出来ない。男たちと共に突き進むしかない。
そして、すべてが終わり見上げる空。この達成感、ハンパない。

前・彦根藩主の十四男である井伊鉄之介、後の井伊直弼は、部屋住みの鬱屈とした日々を送っていた。養子縁組がまとまらず国元に帰されようとしていた時、南津和野藩主の養女・美蝶と出会い、ひと目で恋に落ちる。もちろん適う恋ではない。直弼は悔し涙を流し、すべてはそれで終わったはずだった。
安政五年、四十四歳になった直弼。兄の急死により、藩主として彦根藩を率いる立場となっていた。さらに、藩政を立て直した手腕を買われ、大老にまで上り詰めていた。
江戸城から下城の途中、若き日に恋した美蝶そっくりの娘・美雪姫を見かける。まさしく彼女は美蝶の忘れ形見。直弼の恋心が再燃する。
美雪姫を側室にと南津和野藩に話をもっていき、これを断られると、とんでもない暴挙に出た。無理やり謀反の疑いをかけて、南津和野藩士五十余名と美雪姫を、山頂に幽閉。藩士を人質に、再度、側室の話を持ちかけたのだ。
藩士と美雪姫は、困難な脱出劇に身を投じる。閉じ込められた小屋の下から柵の向こうまで、密かに穴を掘り脱出を図る。
道具すらない状態からのスタート、落盤、寒さ、仲間たちとの不協和音、腐れ風・・・、ひとつの困難にぶつかるたび結束を強め、権力者の理不尽、そして山頂の土に挑む。

一章『井伊直弼の恋』のエピソードは切ない。だからこそ、後の理不尽な言動に繋がることが理解できる。三章『堀江竹人の土』は泣ける。「黒鍬衆に掘れぬ土はございませぬ」、まるで泥人形のような姿、髪は乱れ、体のあちこちに擦り傷がある。両手は青く腫れ、爪は割れ血が滲む。刺すような痛みに耐えながら、それでも凍った土に手を入れる。

読み進めるとある共通点に気付く。南津和野藩奉行の桜庭敬吾、鮫島宗十郎、ひたむきに穴を掘り続ける黒鍬者の堀江竹人。さらに敵役、井伊直弼と謀臣の長野主膳まで、主な登場人物は全員、不惑と呼ばれる四十歳代だ。

現在の世でも、人生の先輩、五十代、六十代から、「まだまだ世の中が分かっとらん、勉強が足らん」と叱られ、二十代、三十代から若い勢いで突き上げられる四十代。逆に言えば、中心となって世の中を、『なんとかせねばならない』世代なのだ。
絶望的な環境の中でも不屈の精神で知恵を絞り、汗をかき、黙々と働く藩士の姿に胸を熱くし、激しく共鳴するのは、そんな理由があったのだ。
『安政五年の大脱走』、これはきっと四十代、私たちの物語だ。

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